Unam Sanctam(ウナム・サンクタム) 訳(前半)

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 『Unam Sanctam』は教皇ボニファティウス8世(在位 1294-1303)によって1302年に出された大勅書。慣例として教皇文書は冒頭の単語をとって呼ばれるため、本勅書も冒頭二単語からそう呼ばれる。

 同勅書はボニファティウス8世とフランス王フィリップ4世(端麗王)との対立の中で生まれた。対立の始まりは、1292~94年の教皇空位期にフィリップ4世が自らの支配地の聖職者に課税したことに対し、ボニファティウス8世が教勅『Clericis laicos』を発布し対抗したことだった。両者の対立は1303年の有名なアナーニ事件の後にボニファティウス8世が死没するまで続いた(フィリップ4世による初めての三部会招集もこの時である)。

 それゆえに『Unam Sanctam』の内容は国王の持つ俗権に対して、教皇の持つ教権が絶対的な優位にあることを主張するものになっている。5世紀のゲラシウス1世以来考えられてきた両剣論に基づき、聖書の独自解釈を加えることで従来の議論を超えて教皇の立場の優位性を示している。中世の内には同勅書の内容が正式に教会法に加えられることはなかったが、教皇権とフランスの対立が再燃すると、1516年に第五ラテラノ公会議による確認を経てカトリック教会で普遍的に認められるようになった。

〇参考文献

河井田研朗「ウナム・サンクタム【Unam Sanctam】」研究社『新カトリック大事典(電子版)』(2024/02/22参照)

ベルンハルト・シンメルペニッヒ著 甚野尚志/成川岳大/小林亜沙美訳『ローマ教皇庁の歴史-古代からルネサンスまで-』(刀水書房, 2017)


本文/訳 

Bonifatius, Episcopus, Servus servorum Dei. Ad perpetuam rei memoriam.                            

ボニファティウス、司教、神の僕たちの僕、このことの永遠の記憶のために①

 1. Unam Sanctam Ecclesiam Catholicam et ipsam Apostolicam urgente fide credere cogimur et tenere.Nosque hanc firmiter credimus et simpliciter confitemur: extra quam nec salus est, nec remissio peccatorum, Sponso in Canticis proclamante, ‘Una est columba mea, perfecta mea: una est matris suae, electa genitrici suae:’ [Canticles 6:8] quae unum corpus mysticum repraesentat, cujus caput Christus, Christi vero Deus. [1 Corinthians 11:3]             

一にして聖なる、カトリック的かつ使徒的な教会を、信仰が強いるために、私たちは信じ、支えなければならない。私たちはまたこのことを強固に信じ、一致のうちに認めている。教会の外に救いはなく、罪の許しもない。雅歌で夫が語っている。「私の愛しき人、全き人はただ一人。それは彼女の母のひとり子、彼女の生みの親に選ばれたものである。」教会は一つの神秘体を表現していて、その頭はキリストであり、その上キリストの(頭)は神である。②       

In qua unus Dominus, una fides, unum baptisma. [Ephesians 4:5] Una nempe fuit Diluvii tempore arca Noe, unam Ecclesiam praefigurans, quae in uno cubito consummata, [Genesis 6:16] unum, Noe videlicet, gubernatorem habuit et rectorem, extra quam omnia subsistentia super terram legimus fuisse deleta.                             

教会の中には一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(がある)。洪水の時代にはノアの箱舟が唯一なるものであった。それは唯一の教会を予示し、一クビトゥムで出来ていた。またそれは唯一の指導者かつ舵手である者を、つまりノアを有していた。そして私たちは、箱舟の外の地上に存在していた全てが破壊されたことを読み知っている。③

2. Hanc autem veneramur et unicam; dicente Domino in Propheta, ‘Erue a framea, Deus, animam meam et de manu canis unicam meam;’ [Psalm 21:21] pro anima enim, id est, pro seipso capite simul oravit et corpore: quod corpus unicam scilicet Ecclesiam nominavit, propter sponsi, fidei, sacramentorum, et charitatis Ecclesiae unitatem. Haec est tunica illa Domini inconsutilis, [John 19:23-24] quae scissa non fuit sed sorte provenit. 

そのうえ私たちは教会が唯一であることを信仰している。主は預言者において言われた。「神よ、我が魂を槍からお救いください。犬の手から我が唯一のものをお救いください」、魂のためにということはもちろん、彼自身の頭と体のために同時に祈っていたということである。そして彼は明らかに体を唯一の教会と呼んでいたのだから、それは花婿、信仰、秘跡、教会の愛それぞれの統一性のためでもあった。教会は主の縫い目のないあのチュニカであり、それは分けられることなくくじによってえらばれたのである。④

3. Igitur Ecclesiae unius et unicae unum corpus, unum caput, non duo capita quasi monstrum, Christus videlicet, et Christi vicarius Petrus Petrique successor; dicente Domino ipsi Petro, ‘Pasce oves meas,’ [John 21:17] ‘meas,’ inquit, et generaliter non singulariter has vel illas, per quod commisisse sibi intelligitur universas. Sive igitur Graeci, sive alii se dicant Petro ejusque successoribus non esse commissos, fateantur necesse se de ovibus Christi non esse; dicente Domino in Joanne, ‘unum ovile et unicum esse pastorem.’ [John 10:16]

それゆえに一にして唯一の教会には一つの体、一つの頭が含まれ、怪物のような二つの頭ではない。また頭とはもちろんキリストその人、キリストの代理たるペトロ、そしてペトロの後継者である。主はペトロ自身に言われた。「私の羊を養え」。主は全体として「私の」を言われたのであり、個別のあれやこれやについて言われたのではない。であるから全て(の羊)が彼に委ねられたということが理解される。それゆえギリシア人、あるいは他の誰にしても自らがペトロ、あるいは彼の後継者たちに託されているのではないと言うのであれば、彼らは必然として自らがキリストの羊たちから逸れていることを示しているだろう。主はヨハネにおいて言われた。「一つの羊小屋、唯一の羊飼いのみがある」。⑤

①この四つの並びは大勅書における定型文である

②雅歌は男女の愛を語ったものだが、その理解には文字通りの理解と寓意的理解の両者が存在し、寓意的理解においてはこれを教会と神との関係について歌ったものであると解釈する。ここでは寓意的解釈に乗って、夫が語った内容は教会について語った内容であると解釈しているのだろう。

③クビトゥムとはラテン語で「肘」の意味で、当時単位として用いられていた。ノアの箱舟は聖書には300クビトゥムの長さ、50クビトゥムの幅、30クビトゥムの高さであったと伝えられているから1クビトゥムではない。ではなぜ1クビトゥムだったと言われているのかというと、1=完全性を示すためだと考えられる。(https://www.catholicplanet.com/TSM/Unam-Sanctam-commentary.htm)

④ここで言われる「彼」とは主=神であり、それが自らの魂=頭と体に祈るということは神とキリストのために祈っているということであり、キリストとは教会の頭であるから回り回って教会のために祈っていることになるということを主張しているのだと思われる。

⑤ペトロの後継者とはペトロの座=ローマ司教座を引き継ぐ者、つまり教皇のことである。羊は旧約聖書以来、神の民、信徒のメタファーとして用いられる。その逆として羊飼いは神、キリストとして理解される。

本文は次に依る(http://www.law.harvard.edu/faculty/cdonahue/courses/lhsemclh/RdgsDownloads/BonifaceVIII_UnamSanctam.pdf


早稲田歴史文化研究会

写真は宝篋山からの眺め

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